應該是第一次用日文寫長篇感想,不打算另寫中文版。
想到啥寫啥的一點籠統的觀影收穫,不關聯作品。
個別作品或啥的待之後再寫,沒有的話就是辭窮寫不出來。
原題:8ヶ月間にアニメ4500話を見た感想
以下本文
実際2024年の1年間に6000話のTVアニメ(新作アニメはカウントしない)くらい見たけど、計画を立て、鑑賞したのは8ヶ月間なので、この4500話分のTVアニメの部分だけの話をしよう。
1.なぜ僕は今更子供向けアニメを見始めたのか。
突拍子もないが、まずこの問題を提出しよう。
と言いつつ、この問題自体、実は前提すら成り立たない。
「見始め」というのは、今までそれらのものを一切見たことない場合の言い方に見えるようだが、そもそも僕がアニメをハマったきっかけはなんだろか、それを掘り下げると、実はあやふやであり、一つの作品に絞れられないのは事実であり、少なくともその中に、「子供向けアニメ」もしくは「ファミリー向けアニメ」の比重が低いわけではないと断言できる。
基本、他人と話すときに、『涼宮ハルヒの憂鬱2006版』はアニメにハマったきっかけといつもそういうふうに申してる。確かに『ハルヒ』を見たから萌えアニメに興味が湧いてきて、いわゆるアニオタになったからそう言ってるのも当然だが、それ以前にもアニメやマンガ、ゲーム、特撮までずっとハマってるのもまた事実。
小さい頃テレビで見たーー例えば『グランゾート』・『ガンバルガー』・『ゴルドラン』・『ラムネ&40』などのロボットものはもちろん、『おジャ魔女』を筆頭した女児向けもの他、『アニポケ』や『デジモン』のようなゲームベースにした作品、『ケロロ軍曹』や『焼きたてジャぱん』系のギャグものも含めて、『ドラえもん』や『こち亀』・『コナン』のような国民アニメと『DB』や『OP』のようなジャンプ系アニメはもう言うまでもない。それ以外もずっとずっと多いーー様々なアニメは、すでに生活に浸透して、それらの作品を目当てにして、新聞紙の番組表を確認しながらわくわくしてテレビの前で放送を待つのは、すでにありふれた日常の一部になってた。(マンガやゲームもそうだったが、文章が冗長になりそうなんでその部分は割愛する)
ではなぜ、それらの作品は、オタク作品(少なくとも当時に)としてカウントされてないのだろう。なぜアニメは、オタク向けと一般向けとして分類されてるんだろう。
この問題意識は、たぶん昨年9月に名劇シリーズを見た際、僕の中で芽生えた。
自分はまだまだにわかだし、アニメを見れば見るほど自分がどんだけ無知だったのか感じてきたし、今でも決してこの問題に対して的確なアンサーを出せるわけではない。
ただ、述べたいだけ。昨年5月中旬『プリキュアシリーズ』を完走した後、アニメ鑑賞の計画を立てた。計画自体は色々弄って変更し続けたけど、とりあえず一段落したので、感想を述べたくて、この文を書いた。
2.アニメ鑑賞計画
(1) 計画立ての考え
また話戻るが、なぜ今更子供向けアニメを見始めたか。昔の話はさておき、なぜ一昨年から子供向けアニメを鑑賞し始めたか。
一昨年アニメ鑑賞復帰したとき、まだなんの計画もなく、見たいものを見るだけであって、それでもたくさん見たいものがあるが。でも正直、自分は一体どんなジャンルの作品が好きなのかイマイチわからなかった。アイドル?日常系?ロボット?確かに過去に見たそれらのジャンルの作品では僕の好みと合ってるやつが割とある。しかしそれは本当に好きな作品なのか、それとも単なる休暇として、憩いの一時として?
ちょうど去年の今頃、富野さんのUC系ガンダムを見返したので、大好きな『∀ガンダム』をもう1回見ようと思ってたけど、なかなか進んでなかった。
んでたまたま『おジャ魔女どれみシリーズ』と『バトスピ異界見聞録シリーズ』もこの頃見終わって、『プリキュアシリーズ』を見始めた頃だった。そして3月に入り、新潟アニメ映画祭があって、そこで高畑勲監督の映画作品ほぼ全部鑑賞して、同じ時期に『ハグプリ』と『あしたのジョー』も見終わった。『ハグプリ』を機に『プリキュアシリーズ』にどハマって、2ヶ月にわたって、シリーズ完走した。
この時ようやくわかったのは、自分はメッセージ性がある作品が好きなんだなということ。メッセージ性、自分の言葉でいうと、制作側の声。プロデューサー、監督、メインライターはもちろん、各回の脚本家、演出やコンテ担当も、それぞれの自分の声を込められてること。
では、各アニメーターたちの声は、どのような経緯で成り立ったのか、実に興味があると思った。だからそれをきっかけに、アニメ鑑賞の計画を立てた。
計画立てについて、主に3つの方向がある。
①∀ガンダム:
本当は『Vガンダム』を見返した後に見るべきだったが、紆余曲折を経て、結局その時見返さなかった。今考えると悪くはないと思う。
『∀』見返すために、主に富野監督が参加した主要な作品を観る。監督作品はもちろん、メインアニメーターとして参加した作品も含めること。
『あしたのジョー』1作目を見た時に思ったのは、いわゆる富野演出はおそらくこの時ようやく卵の殻を破り始めようになったんだろう。本を調べると、富野さん自身も、出﨑さんの作風を通じて、リミテッドアニメの演出というのはなんなのか、TVアニメのコンテはどんな考えをもって制作すべきか、それらのことはこの頃から意識してきたと仰ってた。
富野さんの部分はこんな感じで、そして実際計画に入れたのは、未視聴の富野監督作品他、長浜監督の主要作品、富野さんが手がけた70年代の作品(名劇、タツノコ作品など)。また比較として、同時期の出﨑監督TVアニメおよび同時期代表的なサンライズやタツノコ系のロボットアニメも入れた。
②女児アニメ:
女児アニメと言っても幅がめっちゃ広い。僕自身の目的は、女児アニメがどのような経緯で『ミンキーモモ』・『おジャ魔女』など社会性のメッセージが高い作品を経て『プリキュア』に着いたのか気になる。
そして『アイカツ』を鑑賞するために、昔のサンライズ名作を見るのが必要だと思って、サンライズ作品もいっぱい入れた。
上記2つのルーツがあるが、あまりにも数が多いので、たくさんの作品を割愛した。それらの作品はまたいつか……
③プリリズレインボーライブ関係:
『レインボーライブ』に関して、きっかけは『ハグプリ』の坪田さんのインタビュー。『ハグプリ』は、坪田さんが亡くなった井内さんの言葉を肝に銘じ、「どれだけ悲しい別れがあっても、生きて、前に進め」という思いを込められ作った作品なので、ここで取り上げられた井内さんという方はどんな人だろう。その『プリティーリズム レインボーライブ』はどんな作品だろう。それを思いつつ、計画を立てようと思った。
偶然というか、奇妙なことに、井内さんは、かつて富野監督作品に色々参加していて、井内さん自身もサンライズで子供向けのロボットアニメアニメをいくつか作ってた。『プリリズ』の制作会社タツノコの作品ももともと計画に入れられてるし、『プリリズ』自体も女児アニメだし、比較するアニメも『アイカツ』と大差がないだろうと思い、また『プリリズ』の監督菱田さんもサンライズ出身だし、富野監督のファンである。案外『プリリズ』ルーツは①と②に重複したところが多い。
まあそんなこんなで、計画を立てた。実際見た作品は最初とは違うところもいくつかあるけど、基本上記①から③の考えをベースにして鑑賞した。
(2) 見た作品リスト(ルーツ分け):
①サンライズ昭和時代・富野
勇者ライディーン、ラ・セーヌの星、無敵鋼人ダイターン3、戦闘メカザブングル、装甲騎兵ボトムズ、重戦機エルガイム、蒼き流星SPTレイズナー、機甲戦記ドラグナー
超電磁ロボコン・バトラーV、超電磁マシーンボルテスV、闘将ダイモス、未来ロボダルタニアス
巨人の星、さすらいの太陽、新造人間キャシャーン
②女児向け・サトジュン系統、タツノコ・首藤
魔法の天使クリィミーマミ、魔法の妖精ペルシャ、魔法のスターマジカルエミ、アイドル天使ようこそようこ、魔法のプリンセスミンキーモモ夢を抱きしめて、魔法のステージファンシーララ
とんがり帽子のメモル、ひみつのアッコちゃん(1988)、きんぎょ注意報、明日のナージャ、カレイドスター、うみものがたり~あなたがいてくれたコト~、たまゆら、STAR DRIVER 輝きのタクト、輪るピングドラム、デジモンアドベンチャー
宇宙の騎士テッカマン、巴里のイザベル、宇宙戦士バルディオス、戦国魔神ゴーショーグン、超時空要塞マクロス、超時空世紀オーガス、未来警察ウラシマン、宇宙の騎士テッカマンブレード、マクロス7、おねがいマイメロディ、ヤッターマン(2008)
③一般向け・出﨑・名作
アルプスの少女ハイジ、フランダースの犬、母をたずねて三千里、ペリーヌ物語、赤毛のアン、小公女セーラ、ロミオの青い空、レ・ミゼラブル少女コゼット
未来少年コナン
ガンバの冒険、家なき子、宝島、ベルサイユのばら、おにいさまへ…
陽だまりの樹、蟲師、ハチミツとクローバー、空中ブランコ
④サンライズ平成時代
魔神英雄伝ワタル、魔動王グランゾート、魔神英雄伝ワタル2、絶対無敵ライジンオー、ママは小学4年生、覇王大系リューナイト、天空のエスカフローネ、勇者王ガオガイガー、超魔神英雄伝ワタル、センチメンタル・ジャーニー、DTエイトロン、ガサラキ、無限のリヴァイアス、星界の戦旗、THEビッグオー、セラフィムコール、アルジェントソーマ、機巧奇傳ヒヲウ戦記、Z.O.E Dolores, i、スクライド、陰陽大戦記、絢爛舞踏祭 ザ・マーズ・デイブレイク、古代王者恐竜キング Dキッズ・アドベンチャー、機動戦士ガンダムAGE、バトルスピリッツ覇王、バトルスピリッツソードアイズ、最強銀河究極ゼロ~バトルスピリッツ~、トライブクルクル、ヘボット!
⑤アイカツ
⑥プリティーリズム
3.つぶやき
各作品の感想はここはとりあえず控えて、計画を始めてから今までの全体的な感想を述べよう。
今までアニメを見るのは、とりわけ何のためではなく、単にその場で見たいものを見るという場合がほとんどだったので、このように計画的に見るのがとても新鮮というか、今まで気づいてない、気づけようとしないところもだんだんわかるような気がして、たとえば富野監督作における思想の変遷とか、新世紀の子供向けアニメと70年代人間ドラマ系アニメの系譜とか、各アニメーターの影響を受け、影響を与えたものなど、色々収穫できた。
具体的な例を挙げると、白富野時期の演出は、明らかに名劇時代で高畑勲監督の影響を受けたし、映像に対する意識は上記のように出﨑の影響を受けたほか、そういう「アニメなのに登場人物の演技を求めている」のようなこだわりも長浜忠夫監督の影響も大きいと思う。
他の例だと、サトジュンがいかに後継の少女アニメ出身のアニメーターに影響を与えたか、幾原や五十嵐、細田など優秀な演出家はサトジュンから影響を受けた程度も自分の想像以上だし。
そして各作品に込められた制作側のメッセージ、なにより自分の心がそれらの声に揺さぶられていた。
じゃ制作側の声、どう分かるか、どう探るか。映像作品を観てるときに、どの部分に注目したほうが良いか。
それの説明はとても難しいことで、言葉で的確に伝わるかどうかも怪しい。自分の語彙力の関係もあるけど、そもそもそれは完全に言葉で表現されることではないと思う。
もし詩人の仕事は夢を顕在化させることなら、受け側ーーアニメの場合は視聴者、どうその顕在化した外観から夢を探知するの?
僕は評論家でもないし、芸術批判について全く素人で、風流を解さない。しかし感じれる。アニメーターたちの声がきこえる。それはあの人たちの夢というもの。
首藤剛志さんのような、常識に囚われず常に新しい脚本スタイルに挑戦しつつ、ずっと社会性という核を忘れれてない作家が好き。富野由悠季さんのような、自分の過去作の思想を懐疑を抱えながら歩み続ける作者が好き。高畑勲さんが持つ、緻密な映像と音響演出を通じて人物の生き生きした姿を示させるこだわりが好き。星山博之さんが持つ、一人ひとりの登場人物を人間として扱ってる文芸意識がすき。
人の考え、人としての目線に基づいて築き上げた世界。その世界で起こってるあらゆることが、登場人物に影響を与え、それぞれの秘められたエネルギーを解き放たれる。人の想いは、アニメ映像ならではの「演技」を媒介にして、視聴者に届く。
それがあって初めて、人間ドラマと称すべきであると、少なくとも自分はそう考えてる。
ここで1.の問題意識に戻ろう、すなわちなぜアニメは一般向けとオタク向けと分岐したんだろ。もちろんその間にはっきりした罫線を描けるものではなく、あくまでも私見だが、おそらく70年代から80年代にかけて流行ってたSFアニメや特撮ヒーロードラマが要因であり、それらの作品に魅了された人たちは次から次へとアニメ業界に入り、業界に入ってない人たちも、自分の熱量をアニメという趣味に注ぎ、「アニメオタク」が広がっていき、日本におけるサブカルチャーの重要な一環になっていく。
詳細なところを飛ばして、簡略化の流れの説明になるが、80年代は大まかにTVアニメは一般向け、OVAアニメは熱心なアニメファンと分けられると思う。90年代に入って、冷戦終結や国内のバブル崩壊、続いて来ていたインターネットバブルや就職氷河期など社会情勢を背景にして、サブカルチャーの領域も大きく揺れた。
その後メディア視聴事情の変化や、サブカルチャーのグローバル化を経て、今に至って、TVアニメはすんなりインターネットのメインストリームに偏っていき、アニメファンのためのアニメが主導権を握り、おそらく短期間内にも変わらないと思う。
それでも、良い作品が出されてるし、それらの作品にも制作側の声が存在する。それは間違いない。ただ、その声は、段々人に向けてる声ではなく、アニメファンに向けてる声に移っている。
しかしそれでもアニメファンをターゲットしていない作品も存在してる。それは、子供向けアニメというもの。奇しくも、これらの作品にはアニメファン向けの要素もたくさん盛り付けられているし、なんならそこら辺のオタク向けアニメよりもずっと多くのアニメオタクネタが取り込まれている。しかし、声の対象は昔と比べると変わりがない。人に背けてはいない。それが一番大切だと、今の僕は思う。もっとも、その点に関して子供向けに限られてるわけではないが、その流れでここまで辿り着いたが、あいにく、令和に入り、推し活文化が段々アニメに広がってくる現在、子供向けアニメに存在してるはずのその声すら消えてゆく。それはまた別の話。
少し僕がアニメ鑑賞するときに考えてることも触れよう。
客観的な制作、作画など除いて、昔の僕、アニメのクオリティはストーリー、話づくりだけで判断していた。もちろん凝ってるストーリーは面白いし、整った伏線張りのあるプロットは見飽きない。
ただ、アニメのクオリティは全然それだけじゃないし、シナリオ面だけを見てもストーリー以外にたくさんの要素が詰まってる。
たとえば、台本の構築には、語彙の選びがあり、セリフ回しの表現の仕方があり、シーンやカメラワークに合わせてテクストが初めて力を持つ。言葉というのはこういうものであろう。
これは翻訳字幕では伝えにくいことではあるけど、不可能ではない。しかし多くの場合、翻訳者(公式も民間も)はそのような意識をしてはいない。ただ話を伝えるだけ。
もっとも、問題はそれだけではない。それよりはるかに難局な状況が存在している。それは、言葉の力への認識が乏しい脚本家は、言葉の構築も意識してなく、ストーリーやプロットを想像するだけで精一杯の場合も少なくはない。甚だ残念ながら、それもまた、形式的なものに縛られ、「プロットの秩序とその型破り」というテンプレに陥り、作劇の皮を被った国語科作文に過ぎない。
昔、アマゾンでとある推理小説の批評文を見かけた。
プロットが先に考えて作ったものでは、登場人物もそのクライマックスを作り上げるためだけに動いて、一応その場で読んで楽しい作品になるかもしれないけど人間の中身はない。作者はもっとリアルの生活を見てから物語を作るべき。という批判。
全くその通りだと思った。
ミステリ小説に限らずすべてのフィクションのストーリー作りはそういうふうに作劇するのを避けるべきかと。記号だけで作り上げた人物はそもそも人物と呼ぶべきでなくただの糸あやつり人形でしかない。
もちろん脚本に限らず、映像もそう。アニメの映像はゼロから、想像から出来上がったもの。実写のドラマとは全く違う。どうこのドラマ撮影の論理をアニメに応用し、魅力的かつ有意義な映像を出来上がるかは、それこそ映像の生命だと思う。
誤解を招くような言い方かもしれないが、ここで実写作品と比較するのは、すべてのアニメを実写作品のように人物の一切の動きを正確にアニメを通してそのリアリティを表現する、というリアリズム作品のことを指してるではない。
言いたいのは、上記の脚本のところと同じく、即ち映像もそのコンテ切り、カメラワークのアングル、映像の中のあらゆる物体の動き、それらの要素はそれぞれ作品の目的に合ってること。先に視聴のスペクタクルを考え、作品はその「映像の奇跡」の作り上げためだけの存在にすると、正直に言うと、シンプルにつまらない。極端な場合、切り抜き動画にするのに適するかもしれないが、それ以外のなんでもない作品も存在する。
ここまで言ったけど、別に人間ドラマ系の作品以外全く気に入らないわけではない。
僕自身にとって、作家の声が聞こえて、その声に僕の心が揺さぶられるのであれば、最高の観劇経験になる。
各作品に制作陣がどのような目的で作れてるのか、その愛を注いでるのか、それとも視聴者の体験に刺激を与えるためにクライマックスを作ってるのか、もしくは制作陣は自分このようなワンシーンを作りたいだけなのか、様々の声が、案外簡単に気づけるかもしれない。
僕自身が最高の評価をつけた『∀ガンダム』、『レインボーライブ』、『アイカツ!10th』、『ハグプリ』の4つの作品(『こち亀』は見返し中なので一旦除いて)では、『ハグプリ』は人間ドラマ系ではないが、僕はその声に共感して号泣し、自分の人生観がこの作品に大きく変えられていたから、高評価をつけた。
他の作品について、『アイカツ!10th』は上記の言葉の力の最高峰で、『レインボーライブ』は作品が築き上げた人物像が映像を通じて視聴者の心に与えた震撼、『∀ガンダム』は人を人としてちゃんと見ているという想い。欠点がないということじゃないけど、それぞれの制作者の声が、それぞれの形で顕れ、輝いてる。
それは、なんて素晴らしいことなんでしょう。このような作品を見るのが、大好きです。
来自:Bangumi