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动画《銀河漂流バイファム》『さよなら13人の子どもたち』一點動畫的人物塑造小感隨筆

动画《銀河漂流バイファム》简评:

補完Dragonar回頭重溫了幾集Vifam,感覺之前太低估本作了。

先引以下文章,出自本作完結時Animage雜誌。

文/池田憲章 アニメージュ Vol.77 1984年11月号
見終えて、ストーリーよりも、13人のキャラクターの心情が残るような。「バイファム」はそんな作品でした。見終えて、こんなに気持ちのいい作品はひさびさでした。
思えば、「バイファム」だって「機動戦士ガンダム」の息子ともいうべき作品なのでしょう。
だけど「バイファム」は、明らかに新しいタイプの作品になっていったのです。物語が集団劇というスタイルは変わっていません。ロボットは登場しますが、ロボットは小道具にすぎず、そんなところも同じです。ところが「ガンダム」からはじまったキャラクターがストーリーに巻きこまれ、さまざまなドラマが生まれ、そのなかでテーマや心情を語っていく演出の方法が「バイファム」では少し違っていたと思うのです。
アムロとシャア、ララァのドラマは、明らかに演出のコントロール下にあり、ドラマはテーマと密接にかかわっています。
ところが「バイファム」では、なにかが違ったのです。
ククトニアンと地球人との星間戦争が起こり、そこに巻きこまれ肉親とはなればなれになる13人の子どもたち。その子どもたちが、戦争のなか、孤立しつつがんばっていく物語。そして、ククトニアンがなぜ攻撃してきたのかーーそこを中心に全編を作ってもよかったのです。
ところが、13人の子どもたちは、ストーリーに負けなかった。戦争という怪物にのまれることはなかったのです。戦争という絶対状況のなかでも、カメラはいつも子どもたちを見ていましたーーそれが作者たちのねらいだったのです。
サバイバルでもなく、あくまで多感な年ごろの子どもたちのドラマとして自然に見せてくれたのです。
だから、ストーリー展開とはなんら関連のない、スコットのエロ本事件やマルロとルチーナのあどけなさ、ロディとバーツの名コンビ、ケンツとシャロンの楽しげなケンカぶり、ペンチとフレッドの淡い恋人描写と、そんなところで楽しくはずみ出すのです。「バイファム」では、ストーリーよりも13人のキャラクターのドラマのほうが重要視されていたのですーーもちろん、別の意味で、演出は慎重でした。
13人がすき勝手に動いていては、収拾がつかなくなるはずです。
演出がなにもしてないようで、じつは入念に計算がされていた。その自然さは演出が支えていたのです。
戦争だって終わるかどうかーーなぜカチュアを旅立たせたのか、最終回後半の頭のところで、ロディたちが喫茶室へ入るシーンで、作者たちは、兵士にこんなことをいわせてます。
「和平派かなんだか知らんが、自分のほうから先に手を出しといていまさら和平はないよな」「まったくだ」
この戦争おとなたちの間で、なかなか終結しないだろうということをあっさりと示しているのです。(これは「ボトムズ」でも、ラスト、キリコとフィアナは宇宙のどこかで平和にくらしましたちうってもいいのに、ああいうラストにする演出者の正直さとよく似ていると思います)
しかし、最後も子どもたちは負けませんでした。カチュアやジミーにまた会いたい戦争が終わってほしいーーロディたちの心をのせた紙ヒコーキは、宇宙とカチュアたちに向かって飛びつづけます。
けっして落ちることのない永遠に翔びつづける宇宙の紙ヒコーキーーそこにのったロディたちの心もテーマもいつまでも翔び続けるのです。
あふれる人間のドラマと楽しさ、「バイファム」を想い出すと、思わず笑顔、なのです。

個人的想法裡,理想的人物塑造特徵是,人物栩栩如生,其一舉一動都脫離了被造物的桎梏,而隨著自身的邏輯而行動。一般我們講一個行為合邏輯,會聯繫到此行為是合理的、理性的、最佳(或至少是「較佳」)的選擇。
但人的行為從來不是以客觀合理為唯一基準,混亂的抉擇總是支配著每個人,也因此讓人作為個體有了其主體性。此處所稱的合邏輯的人物行為即是如此,這種行為的描寫可讓他們成為真正具生命的個體(這也使即便有時角色形象帶有誇張的漫畫符號,仍不影響這種真實感)。
這樣的刻劃方式,直覺想到的是從情節推進、台詞設計等等來做,但分鏡上的呈現同樣重要。情節安排適度製造初始舞台後保守推進,以留給人物更多的可能性,台詞精巧化並適度的留白並讓位給演出,以畫面水準來,在情節、畫面推進劇情過程中,最終使得人物能在動畫這樣有限的舞台中翩翩起舞,最終由人物來演繹故事,而非由故事壓迫人物。

我個人最喜歡的動畫作品類型是人間DRAMA,即以人為主的故事,對這樣類型的作品,人物是否生動不死板就直接反應到觀感好壞。無論是重劇情性的作品,還是日常為主軸的作品均是如此,當然對類型不同塑造方式也會有不同,若要簡化上述要求,那最終求的都是一個人物「合邏輯」的行為模式來帶動故事。
在日常單元回裡,我希望該回構成會是人物在面對新事件時的自發行動來進行,而人物群的形象由這樣複數的故事累積而豐富;在連貫的劇作中,人物的行動同樣是講求其前後思想的線性一致,即人物對任何突發事件的應對方式均符合先前鋪墊下的基礎。

如此角度來審視作品的話,Vifam無疑是最頂峰的那類,神田演出與星山為主腳本的結合把握到了絕佳的平衡點,相得益彰而實現1+1>2的成果。很長一段時間我一直以為所謂的真實系機器人指的是戰爭的背景設定寫實、機器人作為普通兵器的刻畫、具信服力的政治角力、逼真而血跡斑斑的戰場描寫等等面向的真實,卻忽略掉「人」作為故事之本的部分。
或許,十年前看到Turn A時被它所迷上,其中一點就是因為它彌補上了我在以前看過的機戰片而形成的認識裡一直缺位的這個部分吧?儘管當時我也還尚未發現這點。
我還能再看到這樣的動畫嗎?

内容来自Bangumi

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